抄録:
1614(慶長19)年に徳川幕府による禁教令が出されたのち、1873(明治6 )年にキリシタン禁制の高札が撤去されるまで、およそ250年にわたってキリシタンの迫害と潜伏の時代が続いた。この間、キリシタンたちは表面上仏教徒であるように装い、中国また
は国内で作られた白磁製などの観音像を「ハンタマルヤ」と呼び、密かにこれを信仰の拠りどころとした。これらの像は一般的に「マリア観音」と呼ばれている。今日、各地の博物館で「キリシタン資料」と称されるものが所蔵されている。これらの資料は、歴史学、
考古学、美術史学などによる成果に基づく実証性のあるものが原則であるが、確証のない真偽を疑うものも「キリシタン資料」として取り扱われていることがある。マリア観音像の場合も、後世に作られた模造品が多く出回っており、潜伏キリシタンによって所持、崇敬されたことが確実なものはほとんどないのが現状である。こうしたなか、現在、東京国立博物館で所蔵されている長崎奉行所による没収品は確かなものとして知られている。
東京国立博物館所蔵のマリア観音像は、1856(安政3 )年に肥前国彼杵郡浦上村(現在の長崎市の一部)で百姓の吉蔵を中心とする潜伏キリシタン15名が一斉検挙された事件、浦上三番崩れ3の際に没収されたものである。浦上三番崩れでは、白磁製の観音像を含む多くの信仰物が長崎奉行所に没収された。長崎奉行所で保管されていたこれらのキリシタン関係遺品は、明治に入ると長崎県から教部省に引き渡され、内務省社寺局を経て帝国博物館(現在の東京国立博物館)に移管された。現在、これらは国指定の重要文化財となっている。これらの没収品の中には白磁製のほかにも陶製、青磁製、土製などの観音像があるが、東京国立博物館のキリシタン関係遺品の目録では、白磁製のもののみが「マリア観音」という名称をもつ。これらは17世紀に中国・福建省の徳化窯で作られたと考えられている。また、「マリア観音」とは一般的に、禁教下にキリシタンたちが表面上仏教徒を装うために信仰し、仏教の観音像に聖母マリアを見立てて拝んだものであると言われてきた。しかし、近年の研究ではこうした従来の見方が見直され、「中国から日本にもたらされた観音像は、聖母マリアとしてキリシタンたちの手に渡っていた可能性がある」という説が新たにに提出されている。そこで、本論でははじめに1856(安政3 )年の浦上
三番崩れの記録から、この摘発事件の際に「異仏」として没収された東京国立博物館所蔵のマリア観音像の由来を確認する。これらの像は潜伏キリシタンによって「ハンタマルヤ」と呼ばれ、彼らの祈りの生活と共にあった。また、浦上三番崩れの没収品のほか
にも、禁教下に没収を免れたマリア観音像が存在することに注目し、その記録を確認する。そして、いわゆる「マリア観音」、すなわち中国から伝来した外見上は観音像である白磁製の像が、どのようにして潜伏キリシタンの手に渡り、「ハンタマルヤ」として
崇敬の対象となったのかについて考察したい。