抄録:
日本バプテスト連盟は,第二次世界大戦敗戦後間もない1947(昭和20)年4月3日に結成された。南部バプテストの流れを汲む旧西部組合の16の教会が代表者を送り,西南学院教会で創立総会が執り行われた。その前身とも言うべき「日本浸礼組合教会西部組合」は,1940(昭和15)年,現在の日本バプテスト同盟の前身である東部組合と合同して「日本バプテスト基督教団」と名乗り,翌年1941(昭和16)年に日本基督教団に加盟し,以後「日本基督教団第四部」として存在した。戦中も伝道活動は保たれたが,日本基督教団の一部であったため,伝道方針や伝道活動は日本基督教団の路線に則ったのは当然のことである。日本基督教団の誕生自体は,1939(昭和14)年1月18日に当時の平沼内閣が議会に提出し,難なく通過成立した「宗教団体法」を意識し,それに追従することを旨としたため,その伝道理念には天皇を頂点とした国体護持を標榜する国家主義が色濃く影を落としていたのは言うまでもないことである。そもそもバプテストはその誕生から,教会と国家の間に一線を画し,信教の自由,政教分離といった主張を全面に押し出すことを以て教派のアイデンティティーを自負していた教派である。それ故に,ヨーロッパ,アメリカにおける初期のバプテストの中には,信教の自由を求めて殉教の死を遂げた者たちも存在する。しかしながら,日本のバプテストの場合,当時の他の多くのプロテスタント諸派がそうであったように,日本基督教団という大樹に連なり,それによって国家権力の迫害の対象となることなく戦中を生き延び,戦後の歩みを始めたと言っても過言ではないであろう。大戦前夜のキリスト教と国家の間に横たわっていたこのような強い結びつきの姿が明確に表れているのは,1940(昭和15)年,青山学院で行われた「皇紀2600年奉祝全国基督教信徒大会」であろう。出席者は国の内外から約2万人を超え,内閣総理大臣近衛文麿,東京市長,東京都知事,文部大臣らが祝辞を寄せるという国家色満載の催し物で,宮城遥拝,君が代で始まり,「大会宣言」が宣言され,頌栄,祝祷の後,万歳奉唱で閉じられている。そこで捧げられた祈祷,語られた説教には,当時盛んに使われた国家主義的なフレーズが並んだが,それは海外伝道に関しても同様で,「八紘一宇」,「大東亜共栄圏」といった国家による植民地政策の用語が頻繁に使われている。当時の日本はその植民地思想と共に朝鮮半島,中国,東南アジアの近隣諸国に入って行くが,キリスト教会もそれに沿って,宣教師や牧師を派遣することでこれら諸地域に入っていった。この海外における伝道活動を統括したのが日本基督教団であった。しかしながら,このような日本の教会による海外伝道の働きは,日本基督教団という宗教団体の誕生以前から教会の間ですでに始められていた。その代表格は1933(昭和8)年6月に富士見町教会の信徒を中心にして始まった「満州伝道会」であろう。この組織は後に「東亜伝道会」と名称を変え,日本基督教団創立後は「日本基督教団東亜局」となって近隣諸国における伝道活動を行っている。実は,この働きにバプテストが深く関係していた事実がある。このことは,当時の日本のバプテストが,海外でも国との関わりにおいて伝道活動を展開していた事実を示唆するものである。満州伝道会の活動を辿る中で明らかになるのは,当時の日本の教会の海外伝道は,満州を中心にして広がり,その後も国の植民地政策と共に進展して行った軌跡である。確かにこのような活動地域は,戦況の進展に伴い,日本基督教団東亜局を通して広げられてはいる。しかし,それは満州伝道会という具体的な働きの下地があってのことであった。これに我々バプテストの先達たちもその末席を占めていた事実は記憶されなければならない。それにもかかわらず,現存の歴史記述においてが該当部分は5頁にも満たず,その終了に関しては,わずか2行半で記述が終えられている。本稿では,バプテストの日本基督教団加盟前に,西部組合の外国宣教師として大連に派遣された天野栄造と,その伝道の始まり,活動の様子,終息という天野の足跡を通して,戦前・戦中の日本のバプテストの歴史の一端を知ろうとするものである。