抄録:
『資本主義からアナーキズムへ』(原題『従資本主義到安那其主義』。以下『資本主義から』と略す場合がある)は、巴金が1930年に上海の自由書店から「芾甘」の名で出版したアナーキズムの啓蒙書である。自由書店は1927年に李石曾らの出資により設立され、アナーキズム関係の書籍および雑誌『革命週報』、『自由月刊』等を発行した出版社である。巴金は1928年末にフランスから帰国したのち、自由書店の運営の一翼を担うようになった。自由書店に参加してからの巴金はほぼ独力で『自由月刊』を編集、また「自由叢書」としてクロポトキンの著作『パンの略取』、『人生哲学――その起源と発展』、『ブルードンの人生哲学』等の翻訳出版、および『断頭台上』、『革命の先駆』等を編集するなど、執筆者・翻訳者・編集者として積極的な活動を行っていた。『資本主義からアナーキズムへ』はアレクサンダー・バークマン(Alexander Berkman 1870-1936,日本ではベルクマンと表記されることもある)の著書『アナーキズムのABC』を下敷きしたものではあるが、1920年代中盤から1930年前後にかけての期間に残された巴金のアナーキズムに関する言論の中では、比較的まとまった形で彼のアナーキズム観を知ることができる唯一の文献と言える。しかも巴金はかつて、この本は「私個人の心血が染み透った」唯一満足できる作品であると語ったことがあるほど、この本に対する思い入れは強かった。しかしこの本はアナーキズム革命の原理と実際を一般庶民に向けて解説するという極めて実践的かつ刺激的な内容のため、人民共和国時期においては当然ながら巴金の各種著作集には入らず、人民文学出版社版『巴金全集』にも「序」のみしか収められなかった。共和国時期のみならず、1930年の出版直後からすでに国民党当局によって禁書扱いにされており、当然ながら初版本しか存在しない。つまりこの本は重要な著作であるにもかかわらず長らく一般読者の目の届かないところに隠匿されてきた著作であった。このような事情であることから、この著作に関してこれまで研究者から言及されたものも多くはなかった。しかし2009年になり、巴金研究会の尽力によりこの書籍が「巴金研究叢書」の一冊として香港文匯出版社から再び出版され、ようやく『全集』の欠陥を補うことができたのである。本稿では、『資本主義からアナーキズムへ』と『アナーキズムのABC』を比較することにより、巴金がどのような過程を経て『資本主義からアナーキズムへ』を書き、そこにどのような取捨選択があったのか、基本的な輪郭を明らかにしたい。