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ボンヘッファーの説教の分析の一つの試み

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dc.contributor.author 松見, 俊 ja
dc.date.accessioned 2014-09-01T14:42:36Z
dc.date.available 2014-09-01T14:42:36Z
dc.date.issued 2006-03
dc.identifier.issn 0387-4109
dc.identifier.uri http://repository.seinan-gu.ac.jp/handle/123456789/200
dc.description.abstract この論文の目的は,神学的枠組みとしては,信仰と行為の関係,神の恵みと服従の関係,あるいは,福音と律法の関係の問題が具体的説教の中でいかに展開されるかを考察するものである。説教において神による和解の出来事の宣言がいかにして倫理的課題と結びつけられて提示されるかという課題である。それは,今日のキリスト教会における説教において,キリストを通しての神の恵みの提示はなされてはいても,キリスト者として,具体的な社会的,経済的,政治的,文化的状況の中でどのように生きたらよいのかの指針の提示においては弱いのではないかという自己反省と予測とがあるからである。マルティン・ルターの宗教改革の合言葉は,「ただ信仰のみ,ただ恵みのみ」として定式化されるが,この定式化は,一方で,信仰がそこから生じる応答としての行為から切り離され,あるいは,イエス・キリストによる神の恵みがイエス・キリストへの服従と切り離されることによって,救済論が,罪人の赦しというより,罪そのものの赦しと誤解され,安易な自己肯定,自己正当化に誤用される危険を孕んでいる。他方,信仰義認論は,キリスト者の日常生活における無律法主義を生じさせたり,あるいは,キリスト者が内面的な心情倫理に留まったり,その倫理的基準が聖書以外から恣意的に個人的裁量で持ち込まれたりする危険を持っていると言えよう。ルドルフ・ブルトマンは,この課題を「直説法」(Indikativ)と「命令法」(Imperativ)の関係理解の問題として把握し,「直説法は命令法を基礎づける」(Der Indikativ begruendet den Imperativ)という有名な定式化を行った。パウロ神学においては,「み霊によって歩めという命令法は,義認された存在の直説法と矛盾しないばかりか,むしろ,そこから結果するのである」と言われるが,ブルトマンの場合,基本的には直説法の先立ちに力点が置かれていると評価されよう。カール・バルトは,彼がボン大学を追われ,教会闘争のさ中の1935年,バルメンにおいてなした講演「福音と律法」においてこの課題を取り上げ,従来のルター主義的な「律法と福音」の関係を逆転させている。このような逆転の背後には,ルター主義の,自然と恩寵,律法と福音,国家の領域と教会の領域のいわゆる「二王国説」がナチス・ドイツとドイツ的キリスト者の存在を許してしまっている同時代への批判がこめられている。バルトにとってイエス・キリストは受肉した神の言葉,福音の内容として「現れた神の恵み」であると同時に,律法の戒めに服従し,律法を成就したもうたお方なのである。バルトが,福音が律法に対して優位性を持つと主張するとき,それは,単に福音が諸々の律法の動機付けになるということだけではなく,イエス・キリストこそが十戒,その敷衍である山上の説教,その適用である使徒の教えの解釈原理であり,律法とはキリストの律法であり,さらに進んで,「律法は恩寵をその内容とする福音の必然的な形式にほかならない」ことを意味するのである。ボンヘッファーはこのバルトの線の上で,「信仰の行為としての性格」(der Tatcharakter des Glaubens)を強調する。彼は,1937年『キリストに従う』(Nachfolge)において「恵みと服従」との関係を論じ,福音から律法(服従)が切り離されると,その結果,一方では,「安価な恵み」,倫理性なしの救済論の提示となり,他方,キリストの恵みに根ざしていない道徳主義,倫理主義が生じることを論じ,マタイ福音書の山上の説教を徹底的に「キリスト論的に」解釈することによって恵みによる義認の信仰と服従の結合を試みている。彼は,福音と律法,信仰と行為の不可分離の関係を「信じる者だけが従順であり,従順な者だけが信じる」(Nur der Glaubende ist gehorsam, und nurder Gehorsame glaubt)と定式化した。この論文では,『キリストに従う』の第一部「恵みと服従」の中の「Ⅰ高価な恵みと服従」におけるボンヘッファーの主張を略述し,彼の主張が彼自身の説教の実践においてどのように貫徹されているかを事例研究するものである。そのためのサンプルとして,37年の『キリストに従う』から年代的に少し遡って,「士師記6:15-16,7:2,8:23からの説教」(ベルリン時代『ボンヘッファー説教全集2』126-134頁)を取り上げる。特に,キリストについて直接言及することが一見困難に見える旧約聖書からの説教の例である。また,『キリストに従う』執筆以後のものとして1940年の「マタイ福音書2:13-23からの説教」(『ボンヘッファー説教全集3』107-113頁」)を取り上げて分析する。その際,彼が1935年から39年にフィンケンヴァルデ牧師研修所で講義したFinkenwalder Holiletik も参考にする。 ja
dc.language.iso jpn ja
dc.publisher 西南学院大学学術研究所 ja
dc.title ボンヘッファーの説教の分析の一つの試み ja
dc.contributor.transcription マツミ, タカシ ja-Kana
dc.contributor.alternative Matsumi, Takashi en
dc.publisher.alternative Seinan Gakuin University Academic Research Institute ja
dc.type.niitype Departmental Bulletin Paper ja
dc.identifier.jtitle 西南学院大学神学論集 ja
dc.identifier.volume 63 ja
dc.identifier.issue 1 ja
dc.identifier.spage 63 ja
dc.identifier.epage 92 ja
dc.textversion publisher ja
jpcoar.creatorAffiliation.nameIdentifierKakenhi 37105


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