抄録:
「あなたは,神が場所の中に包まれるのであってはならないと言っている。〔しかし〕今やこの神が〔エデンの〕園の中を歩き回ると言うのであろうか」―― 有限な場所であるエデンの園を神が歩んだとする創世記の記述に関して,二世紀の非キリスト教徒アウトリュコスが物語上で問い掛けたこの疑問は,この時代のキリスト教の神概念と教理における幾つかの重要な問題を浮彫にしている。神は有限な場所(限られた空間)の中に限定される(閉じ込められる)ほど小さな存在なのか。(包み込まれる)神が(包み込む)場所よりも小さな存在だとすれば,場所や世界を構成する質料の方が神よりも大きな存在とならないだろうか。このような場所の問題によって,神があらゆるものの唯一の支配者であるとする単一支配(モナルキア)は維持できなくなるのではないだろうか。また,神は人間と同じ場所に立ち,人間に知覚される存在なのか。すなわち,神は感覚で捉えら
れる存在なのだろうか。冒頭の問い掛けに応答したアンティオキアの司教テオフィロス(169頃活躍)は,ロゴス概念を用いてこの問題を解こうと試みている。彼は,神自身は有限な世界に閉じ込められず(包み込まれることなく),むしろ世界を包括する偉大な存在であり,世界を造り出し,支配する唯一の存在であって,また神は人間の感覚では捉えられないとする。したがって,エデンの園に顕れた神は,神自身ではなく,神のロゴスであって,このロゴスを最初の人間であるアダムは捉えたのだと彼は説明している。このようなテオフィロスの創世記解釈は,神自身とロゴスを区別することによって,超越者が世界に内在する問題を解決しようとするものである。しかし,一見すると,この解釈は一神教を放棄することで成り立っているような印象を受ける。ロゴスも神であるとすれば,二神論になるのではないだろうか。また,神でもあるロゴスが人間に知覚されるのであれば,神を超越者とする,この時代の神的概念にそぐわないのではないだろうか。本論では,「場所」概念を手掛かりとして,上述のテオフィロスのロゴス概念を分析し,彼の説く一神教概念や否定神学的文脈との整合性を吟味する。それによって,彼を含む二世紀の護教家教父たちが説いたロゴス概念が,後の時代の三位一体論などで展開されるキリスト論の教理史上で,どのようなかたちで位置付けられるかを考察してみたい。