抄録:
戦争が西南学院に与えた影響について、筆者の戦争体験を踏まえての執筆を依頼された。すでに『西南学院史紀要』には、第3号に内海敬三氏による「西南学院とアジア・太平洋戦争」と題しての論考があり、さらに第4号には松見俊氏によって「戦時下のチャペルと西南学院の戦争との関わり」という題目の論説が掲載されている。内海氏は戦時下に西南学院中学部に学んでいたので、学院内での戦争体験者であり、論考の内容には大変に興味深い事項が述べられている。農村に宿泊しての勤労奉仕・作業、福岡の蓆田(板付)飛行場建設への勤労動員、軍需工場への学徒動員、福岡大空襲(1945(昭和20)年6月19日)など体験に基づいた諸事項が記されており、同時代に生きた筆者も同じ体験をしたのでいろいろと回顧しながら興味深く読んだ。一方、松見氏は主に1934(昭和9)年から発行されていた『西南新聞』の記事を探索し、それに基づいた戦時下の広範囲に亘る諸事項が丹念に記述されている。戦時中の『西南新聞』には今まで目を通す機会はなかったこともあって、当時の学院長、校長の講話など初期における部分と戦争の進行に伴い事態が緊迫して行く状況に応じて変化して行く様を興味深く読んだ。戦争遂行に向かって軍事政権の下、国家全体、全国民が動員され、すべてが戦争遂行に邁進を余儀なくさせられた中で、外部からの援助は途絶え、あまつさえ敵国アメリカ、その敵国の宗教、キリスト教宣教団によって創設された西南学院を存続させ、維持経営していかなければならない学院長をはじめ学校の指導者たちの苦悩・懊悩は想像するに難くない。戦時中から戦後にかけて学院長を務めたキリスト者、水町義夫は英文学者であり、特に詩歌を愛する自由人であった。戦後、大学が設立されて水町院長は引退しておられたが、英文学、なかでもシェイクスピアや英詩を講じておられた。筆者にとっては恩師の一人であり、またゼミの指導教授でもあった。筆者と西南学院との関わりは、1949(昭和24)年、新しく設置された新制大学として発足した西南学院大学に最初の新入生として入学してから始まる。したがって戦時下の西南学院とは関わりはなかったし、直接は何も知らない。ただ当時いわゆる「大東亜戦争」が勃発した1941(昭和16)年は小学校の6年生であったと思う。真珠湾攻撃を祝して、学校から鳥飼八幡宮に提灯行列をしたような記憶がある。翌1942(昭和17)年に西南学院に隣接している公立の中学校(旧制)に入学した。しかし、西南学院における戦時体制下の諸事情・状態に共通する様々な厳しい多くの体験を持ったと思う。与えられた標題に関して稿をまとめるに当たり、先の両氏の史実に基づいた論考は貴重な資料であり、そこに用いられた資料以外の新たな資料を見出すことは困難であるように思われる。西南学院は、周知の如くチャールズ・ケルシィ・ドージャー(以後、C.K.ドージャー)によって1916(大正5)年に創設された。創立者C.K.ドージャーは、アメリカ南部バプテスト派から派遣された宣教師であった。そこで南部バプテスト・ミッションから見た戦時下の日本における教育を含めた宣教の状況を記録し、かつ考察してきた視点があるのではないかと考えた。幸いに南部バプテスト宣教団から派遣されていた宣教師、後に西南学院大学神学部教授としても教鞭をとっていたキャルヴィン・パーカー(Calvin Parker)が、南部バプテスト派の日本伝道開始1889年から100年間の日本伝道の歴史を史実に基づいて研究し、一冊にまとめてアメリカの出版社(University Press of America)から出版した著書がある。書名はThe Southern Baptist Mission in Japan, 1889‐1989 である。この中から戦時体制下の戦争と西南学院に関する情報をある程度は得られるのではないかと考えた。以下、主に史実に基づき、ミッションから見たパーカーの論述を参考にし、筆者のコメントも挟みながら稿を進めることにしたい。(本稿は、学術的な論述ではないので、注は原則として付けないことにする。パーカー氏はアメリカ・ヴァージニア州リッチモンドの南部バプテスト外国伝道局に保管されている膨大な日本宣教に関する資料をはじめとして、種々の他の文書資料、さらに戦後も再来日して奉仕した宣教師からの口頭でのインタービユーに基づいて本書をまとめており、出所、出典等は原著に明確に記されている。ここでの再録は行わないことにする。著者パーカー氏とその詳細な、優れた研究業績に深甚の感謝を表明するものである。)