抄録:
絵を描くとは「なぜ描くか」「なにを描くか」「どう描くか」の三つの問いに取り組むことだ。「なぜ描くか」で生き方を問い「なにを描くか」で価値観を問い「どう描くか」で経験を問う。重要度は「なぜ描くか」「なにを描くか」「どう描くか」の順だ。絵を指導する立場になって20年が経つ。無責任だが、肝心の「なぜ描くか」「なにを描くか」は避けて「どう描くか」ばかりを教えてきた。理由は簡単、前者二つは、どう教えればよいのか分からなかったからだ。もっと言えば、教えることはできないと諦めていたからだ。そんなわけで、適当にごまかしながらやってきたのだが、そのごまかしが積もり積もって、とうとう数年前に自分の教え方に嫌気がさした。やっぱり「なぜ描くか」「なにを描くか」を伝えなければ、お稽古事になってしまう。絵を描くことは、お稽古事ではない。そこで、考えたのが、自分の制作の全てをオープンにする試み。想像するに、昔、徒弟制で絵が描かれていた頃、仕事場には師匠が苦悶する姿や歓喜する姿などが溢れ、弟子たちはそれらを浴びるように感じることができたのではないか。そうして、絵に関する諸々、特に、目に見えないことは“教わる”よりもダイレクトな“感じる”によって伝えられたのではないか。言い換えよう、目に見えないこととは、生き方や価値観だ。先の師匠たちに比べると私のそれなど塵にも満たないが、絵を描くことに、同じように苦悶し、同じように歓喜している。だとすれば、自分の制作の一部始終を曝け出せば、いくらかの「なぜ描くか」「なにを描くか」が伝わるのではないか。確証はない。とりあえず実験的に始めてみた。真っ白なままちっとも進まないキャンバス、描き出したかと思ったら塗りつぶし、失敗を重ねながらどうにかこうにか完成まで辿り着く、あるいは完成に辿り着けずにふりだしに戻る、などなど、描きかけの絵を前にして大概にかっこわるいところを見せた。話もした。成果と言えるかどうかわからないが、この方法を採り入れてから、学生との距離がグンと近づいたように感じている。お稽古事の先の世界に踏み込めているのかもしれない。本資料では、2003年から始めた『自作を教材として用いる試み』の中から10点を図版と解説によって紹介する。解説はゼミ生に対して話した内容の一部である。