Abstract:
国外追放となったシーボルトが其扇へ送った最初の手紙は、これまで未発表だった。シーボルトの手紙は、1941年刊の『シーボルト関係書翰集』に多く載っているが、この手紙は掲載されていない。『シーボルト関係書翰集』は、ベルリンにあった日本研究所(日本学会)が収集したシーボルト関係資料をもとにしており、それは、1927年にシーボルトの孫娘エアハルト男爵夫人エーリカからベルリン日本研究所が一括購入したものである(ベルリン日本研究所の収集資料は、1935年、上野の東京国立博物館で開かれた「シー
ボルト資料展覧会」(4月20日~ 29日)のために日本へ貸し出された。その時、2年間をかけて資料撮影が行われ、白黒反転のフォトシュタット版複製品は東洋文庫に現存する)。ここで紹介する手紙は、シーボルトの次女マチルデ・フォン・ブランデンシュタインの子孫家に伝わる手紙である。ブランデンシュタイン(Brandenstein)城に残るシー
ボルト手紙の一部は、宮坂正英氏らによって紹介され、日本語訳も付されているが、この手紙は未発表である。1829年、国外追放となったシーボルトは長崎を出港し、オランダによるアジア貿易の基地があったインドネシアのバタヴィア(現ジャカルタ)に着く。彼はバタヴィアからオランダへ向けて出港するとき、其扇へ3 通の手紙を送った。オランダ語で書かれたシーボルト自筆の手紙の他に、内容を和訳し「女房詞」調の「くずし字」で書かれた和訳文の手紙も残る。シーボルトが送った3 通の手紙は、その年の其扇の返事に「三月四日、同七日、同十四日、三度御手紙相とゝき」とあるから、確かに届いている。
本稿ではオランダ語原文、「女房詞」調の和文を全文掲載し、併せて現代語訳も掲載する。手紙には、どのようなシーボルトの想いが込められているのだろうか。また彼は、日本に残した妻子の「面倒」をどのように見たのだろうか。