Abstract:
日本における考古学の始まりは、一般的にE・S・モースによる大森貝塚の発掘だとされ、「近代科学としての日本考古学の出発にふさわしい」(大塚・戸沢・佐原編『日本考古学を学ぶ』1988 有斐閣:57頁)とされている。しかし、国学や本草学が盛行
していた時代には、趣味や研究の1 つとして石器や勾玉などの古器物を集め、研究・考察結果を論文として書き遺した人物が多数存在していた。そのような人物たちは、現代において考古学の先駆者として評価されており、研究も多くなされている。江戸時代に考古学が学問的に成熟したわけではないが、学問の隆興と好古思想の流行から多くの学者が古い事柄を考える取り組みを行い、それらの人々はしばしば「好古家」と呼称される。具体的な好古家の例を挙げると、福岡藩の好古家として有名なのが青柳種信である。彼の考古学的業績としてもっともよく知られているのがその著作『柳園古器略考』である。これは、1822(文政5 )年に怡土郡三雲村で偶然発見された、甕棺と同時に出土した銅剣・銅戈・鏡・銅矛・勾玉・管玉・ガラス璧について記録・考証したもので、その図版の正確さや考証の精緻さで高く評価されている。そのような人物たちに個人的に興味を持ち、好古家として著名な伊藤圭介と彼が所属していた本草家グループ・嘗しょう百ひゃく社しゃの活動を調べていた際、メンバーの1 人である吉田雀じゃく巣そう庵あん(以下雀巣庵とする)の活動に興味を持った。彼が主催し自宅で行っていた博物会には石器や古器物の出品が多い(磯野2001)という情報を手に入れ、幸いにも国立国会図書館デジタルコレクション(http://dl.ndl.go.jp/)でその博物会の目録を閲覧することができた。雀巣庵は『虫譜』『貝譜』『魚譜』などの自然科学分野に関する名著を遺したことで名高いが、本稿では『尾張名古屋博物会目録』という史料を通して、雀巣庵を考古学の先駆者として再評価したい。