抄録:
1839年にF.Ph.フォン・シーボルト, C.L.ブルーメ, J.ピエロ―, J.C.ロットバルトが日本と海外のオランダ領から植物を輸入するため協力し合った。園芸家ロットバルトはオランダに輸入された植物の栽培の責任者となった。植物採集家ピエロ―が出島に向かう途中死亡したのではあるが,ロットバルトの栽培場に十分な植物が栽培されていたので,シーボルトとブルーメは1842年に新しい王立協会を設立することを決めた。この新しい協会は特にオランダにおける園芸の振興と,かつては世界中の新しい,エキゾチックな植物の集まる中心地であったオランダの名声を取り戻すことを目的した。この事業は協会の会員が輸入された植物を手頃な値段で購入し,自分たちでそれらを市場に出す機会となれば,その目的を達成することができるとシーボルトとブルーメは考えた。
1843年にロットバルトが共同事業から離れ,彼の栽培場にあった植物はシーボルトの栽培場に移された。次にブルーメもこの事業から離れ,シーボルトが植物輸入とその栽培だけではなく,協会の会員への植物売買の全ての責任を負うこととなった。植物輸入の経費は高額であった割には,実際オランダに到着した際に生き伸びた植物は比較的に少なかった。そのため,協会の会員にはその輸入植物に高い値段が要求されるようになり,その結果,協会の財政もあまり良くなかった。シーボルトは,健康問題だけではなく,財政的な困難もあり,ドイツに引っ越すことも考えていた。彼は最初,栽培場を現金で王立協会に売却しようとしたが,うまくいかなかったので,次に協会の会員に栽培場の株を分配しようとしたが,皆の興味を引くものではなかった。1847年末にシーボルトの栽培場は全く王立協会から独立の存在となっていた。その時点で,シーボルト本人に日本からの植物輸入の5年間の独占権が許されていたが,それ以降は王立協会が自ら日本からの植物輸入を行うことになった。しかし協会の運営の成功率もあまり高くなかった。
1848年以降になると,協会の会員はむしろ植物の展示会の開催に力を入れることになった。時間が経つにつれて会員数も減り,残っていた会員は最終的にはこれらの展示会でさえ継続することができなくなった。結局,王立協会は1867年に解散となり,その古文書類はロッテルダム市立古文書館に引き渡された。その内容のリストもここで紹介することにした。今までほとんど知られていないこの史料群が,シーボルトによる日本からの植物導入に関する今後の研究の参考になればと思う。