抄録:
第二次世界大戦後、1950年前後のフランスにおいては、アンリ・マティス(Henri Matisse 1869-1954)によるヴァンス・ロザリオ礼拝堂(1949-51年)、フェルナン・レジェ(Fernand Léger 1881-1955)やジャン・バゼーヌ(Jean René Bazaine 1904-2001)の装飾によるオダンクール・サクレ=クール教会(1949-51年)、そしてル・コルビュジエ(Le Corbusier
1887-1965)によるロンシャン・ノートル=ダム=デュ=オー礼拝堂(1951-54年)といったモダニズムの芸術家が関わった教会や礼拝堂がほぼ同時的に複数誕生している。マルク・シャガール(MarcChagall 1887-1985)もまた、こうした動きに呼応するように、フランス南部の町ヴァンスで当時すでに使われなくなっていたカルヴェール礼拝堂(Chapelle du Calvaire)に出会い、その礼拝堂を装飾する目的で、十七点の大型の油彩画からなる〈聖
書のメッセージ〉連作«Message Biblique»(1955-66年)を描き始めた。
このように、当時フランスで多くの芸術家が教会や礼拝堂の装飾に関わった背景には、宗教芸術の刷新を担ったドミニコ会修道士マリー=アラン・クチュリエ(Marie-Alain Couturier 1897-1954)とピー=レモン・レガメー(Pie-Raymond Régamey 1900-96)の二人の神父を中心としたカトリック復興運動「聖ラール・サクレなる芸術」運動があった。この運動の理論的支柱が、美術を通して信仰を復興させる目的で1935年に創刊された機関誌『ラール・サクレ L’Art Sacré』であり、クチュリエ神父とレガメ神父の指揮のもと、二十世紀のフランス宗教芸術において、多大な影響を及ぼした。そして、こうした「聖ラール・サクレなる芸術」運動の成果を問う試みとなったのが、1950年に献堂されたアッシーのノートル=ダム=ド=トゥト=グラース教会(Notre-Dame-de-Toute-Grâce)である。そこにおいては、芸術監督を務めたクチュリエ神父のもと、思想や信条を問わず、優れた現代芸術家が結集し、そこにシャガールも加わったのである。
シャガールは、1950年の1月に、ヴァンスで礼拝堂装飾のための準備を開始した。この年の8月には、アッシー教会の献堂式が行われている。また、同年9月にはヴァチカンで「聖なる芸術国際展覧会 1900-1950」が始まり、さらに11月にはパリで「聖なる芸術:19-20世紀のフランス美術」展が開幕した。シャガールによるカルヴェール礼拝堂の装飾構想は、1950年を中心とする二十世紀フランスにおける宗教芸術運動の高まりのなかで生まれたのである。しかし、その後、絵の保存を考慮して礼拝堂装飾のプロジェクトは中断された。
プロジェクトの中止に際し、礼拝堂の壁画としてすでに制作が開始されていた絵は、シャガールの古くからの友人で、当時ド・ゴール政権のフランスで文化大臣を務めていたアンドレ・マルロー(AndréMalraux 1901-76)の提唱により、1966年に国に寄贈され、ヴァンスからほど近いニースに新たに作られる国立美術館のコレクションの中心として展示されることになった。そして、1973年に「マルク・シャガール国立美術館」が開館した。今日の美術館における展示は、カルヴェール礼拝堂で計画されていた壁画の配置を引き継いだものではない。美術館における展示が、それぞれの絵の独立性や鑑賞体験の純粋性を担っている一方で、礼拝堂の壁画である連作としての有機的な構造は隠れてしまっている。本稿で見るように、1950年以後のシャガールの仕事においては、有機的な全体が一つの意味を伝達するということが重要な意味を持つようになるのである。
そこで本稿では、シャガールによるカルヴェール礼拝堂の装飾構想に光を当て、その壁画として描かれた〈聖書のメッセージ〉連作における有機的構造について考察を行う。ここで見られる造形的手法、すなわち、聖書の複数の物語場面が互いに連関しながら、時間的、空間的に響き合う表現は、1950年代末に始まるステンドグラスの造形的表現において結実するのである。