Abstract:
一般に、因果関係とは、「原因―結果」の関係をいう。刑法学においては、実行行為と現に生じた結果との間に「原因―結果」の関係があるかという形で問題とされ、両者の間にそうした関係がある場合に、結果の実行行為への帰属がなされる。この因果関係は、とりわけ結果犯において、その成立のために必要な要件とされてきた。因果関係論は、長い間に渡ってわが国の刑法学における中心論点の一つとして数多の議論が積み重ねられ、現在に至っている。 因果関係をめぐる議論は、とりわけ近時において活発なものとなっている。かつては、学説において、その判断基底をめぐって争いはあったものの、相当因果関係説を採用するというただ一点においてはほぼ争いがなく、長きに渡りこの見解が通説的地位に君臨してきた。しかしながら、近時における議論では、相当因果関係説を採用しない方向での見解が主張されるなど様々な見解を見るに至っており、理論的な対立状況が顕在化しているのである。 近時のこうした因果関係の議論状況は、いわゆる「相当因果関係説の危機」に端を発する。この「危機」は、いわゆる大阪南港事件最高裁決定(最決平成二年一一月二〇日刑集四四巻八号八三七頁)を契機に叫ばれるに至った。本決定において、最高裁は、およそ経験的に通常とは言い難い第三者の行為が介入した場合における因果関係について、これを肯定する判断を行ったのである。ところで、本決定をめぐっては、最高裁の判断枠組みもさることながら、何よりも本決定の調査官解説が反響を呼んだ。すなわち、予見可能性を基準とする相当因果関係説の具体的な判断方法に問題があるから実務が相当因果関係説を明示的に採用していないとして、相当因果関係説に対して厳しい批判が加えられたのである。こうした批判を端緒として、学説の側は、相当因果関係説について、大幅な自己変革を余儀なくされるに至った。ところで、このような「相当因果関係説の危機」が叫ばれた背景として、「『判例から顧みられない理論では学説の危機だ』と受け止める傾向が非常に強くある」ことが指摘されている。その意味においては、この「危機」は、学説の側における「危機『感』」とみることも可能であろう。すなわち、近時の因果関係をめぐる議論の活性化は、この「危機」/「危機『感』」を克服するためにもたらされたものであると評価できるのである。しかしながら、その一方で、こうした近時の因果関係をめぐる議論状況は、その見解を採用するという一点においてほぼ争いがなく、長きに渡り通説的地位に置かれてきた相当因果関係説とは何であったのかという問いを想起させずにはいられない。もっとも、ここでいう「相当因果関係説とは何であったのか」という問いは、相当因果関係説の理論的・結論的妥当性を問うものではない。右に見たように、実務の側から、相当因果関係説はその判断方法に問題があるという一言の下に否定的な烙印を押されたわけであるが、これは結局、長期間に渡り、学説が裁判実務に対して何ら影響を与えることなく、独善的に推移してきたということを意味しまいか。その意味での「問い」である。勿論、常に裁判実務に対して何らかの影響を振るわなければ学説ではないということを意味するのではないし、逆に、学説が常に裁判実務に追随しなければならないということを意味するのでもない。しかしながら、学説が、因果関係に関して、長期間に渡り裁判実務とリンクしたものを示してこなかったという点は反省すべき点であろう。その意味でも、なぜ、相当因果関係説が裁判実務の因果関係とリンクしたものを示してこなかったのか、なぜ、「相当因果関係説の危機」と呼ばれる状況に陥ったのかについての検証を必要としよう。こうした検証を抜きにしては、「相当因果関係説の危機」以降示されている種々の見解についても、再び、同様の「危機」が起こらないとも限らないのである。本稿は、右のような問題意識から、そうした検証の一環として、裁判実務の因果関係の認定に関して検討を行うことをその課題とするものである。