Abstract:
200字原稿用紙1254枚からなる村上寅次『波多野培根伝』(稿本)全4巻は,謎に満ちている。「序」と「あとがき」が無いために,筆者の執筆意図や目的を稿本から知ることはできない。奥付も無く公的な執筆年が分からない。4巻それぞれのタイトルを記していないので,目次も分からない。しかしながら,村上寅次が並々ならぬ意欲を長年にわたって持続し,『波多野培根伝』執筆に取り組んだ事実は疑いようもない。杉本勝次は『勝山餘籟-波多野培根先生遺文集』の「序」において,1977(昭和52)年当時の執筆状況を紹介している。……先生の伝記を刊行することも,強く望まるるところである。寂々人間の第一流,これほどの人間の生きざまは,必ずや後世に書き残しておく義務がある。村上寅次君は先生の教え子の一人で既に早くから伝記の編集に手を着けておられ,先生前半生の部分の出来あがった原稿は私も読ませて貰い,その密度の濃い充実した記述に深く感銘し,これが早く完成して世に出る日を待ち望んでおるけれども,いま村上君は西南学院大学の学長として多忙の身,筆がなかなか進まないというのも無理からぬことであろう。西南学院大学学長・西南学院院長といった重責を担いながら,それでも村上寅次は『波多野培根伝』執筆に取り組み続けた。その理由が問われる。この問いは「村上に取り組みさせ続けた内的動機」とするのが的確であるかもしれない。なぜならば,彼を突き動かした動機は単なる学問的関心を超えているからである。村上が生涯をかけて打ち込んだ執筆作業はもっと深い所から出ている。それは教育者村上寅次を形成し続け,困難な教育状況においては指針となり,彼の全人格の根底に存在したものでもある。村上寅次をして『波多野培根伝』執筆に向かわせたものについて,間違いなくいえる一つの事実がある。それは西南学院という教育の現場である。村上はこの場において波多野培根と出会って薫陶を受け,教育者として教壇に立ち,共に学院の責任も負った。波多野の亡くなった後も自らが育てられた原点に絶えず立ち返りながら,彼は『波多野培根伝』執筆に取り組んだ。だから西南学院において波多野から村上へと継承された教育の精神こそ,村上寅次をして執筆作業へと向かわせた原動力なのである。学院の歴史において継承されてきたものは多くある。しかし,西南学院をして西南学院たらしめている柱はキリスト教教育である。本稿が波多野のキリスト教教育を取り上げる理由もそこにある。