抄録:
『ルーゴン=マッカール』叢書第12巻の『生きる歓び』は1884年に刊行されたが,最初の構想から3年間の中断の後,筋書きや舞台背景の変更が加えられ完成した。心理的,哲学的作品にするという意図は1880年の第一準備草稿からあった。しかしゾラの現実の生活において,母親の死,文学の師であったフロベールの死,友人デュランティー,ツルゲーネフやマネの死に遭遇し,心気症(hypochondria)やペシミスムの苦しみで中断されていたのである。この作品を再考し始めたゾラにとって,1883年は「危機的状況」の後の回復期であり,書くことにより「治癒」したともいえる。この作品の特徴は,資料を駆使するという従来の自然主義的手法ではなく,またゾラの同時代の第二帝政という枠組みに限定しないという作品であることだ。ゾラは逆に,もっと親密で個人的な作品,自分自身の歴史や気質に深く根ざしたものをと考えていた。つまりゾラ自身のこと,家族,自分自身の個人的思い出など,自分そのものを作品に埋め込みたかった。筋書きの変更は,伝染病,殺人,不倫などメロドラマ的要素が取り除かれたことである。そして舞台設定は,パリ郊外から海岸沿いの漁村へと変更された。このノルマンディーにあるボンヌヴィルという小さな村はこの作品にとって重要な舞台背景であり,第2準備草稿から生成された登場人物ラザールと,第1準備草稿から既に構想されていたポリーヌと共に,作品の主要な軸を構成している。 舞台背景としての「海」は,『ル-ゴン=マッカール叢書』の構想プランが10巻から20巻に広がった時点では,『生きる歓び』は苦悩についての小説であったが,その中では「海」については触れられていない。近代化の始まる社会において,人の移動は容易になりつつあったが,ゾラは異国趣味を題材にはしていないし,旅行もあまり好んでいない。1870年当時流行りつつあった湯治としての海水浴を妻のために行った以外,海との繋がりはなく,中学までいた故郷といえる南仏プロヴァンスの海景のみがゾラにとっての海であった。1875年に初めてノルマンディーの浜辺に滞在し,その滞在で受けた海の印象を,いつか小説に使いたいとノートにメモを残している。また翌年のブルターニュ地方での二か月の滞在では,荒々しい海景に深い印象を受け,それが『生きる歓び』の舞台背景であるノルマンディーの海の描写に多く影響を与えることになる。ゾラが『生きる歓び』執筆によって,精神的病を「治癒」できたことは「海」と関係があるのではないか。この問題に答えるために本論の第1章では,ゾラがそれまでに書いた『ルーゴン=マッカール叢書』の他の作品において,『生きる歓び』以前の作品では「海」のイメージがどのように隠喩されていたかを論じ,第2章では三年の中断後,書かれた『生きる歓び』の背景となるノルマンディー地方のサントーバンの「海」の表象が第1章の隠喩で用いられた「海」とどう違うのか,この問題について考えるために,まず,ゾラの意図した抑制された「海」の表象とはどのようなものであるのか,そしてその中で強調されている,海のエミエットマンémiettementのイメージと,一日ごと,一年ごとに変わる,海のサイクル性のイメージについて述べる。そして第3章では第2章で述べた海のエミエットマンémiettement〔粉砕〕のイメージと,海のサイクル性のイメージという二つの要素が,死の恐怖に怯えるラザールと,また紆余曲折の中で苦しみを乗りこえるポリーヌの生き方とどう照応するのか論じたい。このゾラの自伝的作品『生きる歓び』の「海」に持たせたエミエットマンと,サイクル性の二つのコントラストを通じて,ゾラはラザールとポリーヌにどう「死と生」を表現させたかったのか,またそのことがゾラ自身の「治癒」とどうつながったのかを探求していきたい。