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キリスト教教育と私(11)
塩野, 和夫
シオノ, カズオ
Shiono, Kazuo
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西南学院大学国際文化論集
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西南学院大学学術研究所
Seinan Gakuin University Academic Research Institute
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アンティオキアのテオフィロスの創世記解釈とロゴス論 ──「場所」概念を手掛かりにして──
津田, 謙治
ツダ, ケンジ
Tsuda, Kenji
「あなたは,神が場所の中に包まれるのであってはならないと言っている。〔しかし〕今やこの神が〔エデンの〕園の中を歩き回ると言うのであろうか」―― 有限な場所であるエデンの園を神が歩んだとする創世記の記述に関して,二世紀の非キリスト教徒アウトリュコスが物語上で問い掛けたこの疑問は,この時代のキリスト教の神概念と教理における幾つかの重要な問題を浮彫にしている。神は有限な場所(限られた空間)の中に限定される(閉じ込められる)ほど小さな存在なのか。(包み込まれる)神が(包み込む)場所よりも小さな存在だとすれば,場所や世界を構成する質料の方が神よりも大きな存在とならないだろうか。このような場所の問題によって,神があらゆるものの唯一の支配者であるとする単一支配(モナルキア)は維持できなくなるのではないだろうか。また,神は人間と同じ場所に立ち,人間に知覚される存在なのか。すなわち,神は感覚で捉えら
れる存在なのだろうか。冒頭の問い掛けに応答したアンティオキアの司教テオフィロス(169頃活躍)は,ロゴス概念を用いてこの問題を解こうと試みている。彼は,神自身は有限な世界に閉じ込められず(包み込まれることなく),むしろ世界を包括する偉大な存在であり,世界を造り出し,支配する唯一の存在であって,また神は人間の感覚では捉えられないとする。したがって,エデンの園に顕れた神は,神自身ではなく,神のロゴスであって,このロゴスを最初の人間であるアダムは捉えたのだと彼は説明している。このようなテオフィロスの創世記解釈は,神自身とロゴスを区別することによって,超越者が世界に内在する問題を解決しようとするものである。しかし,一見すると,この解釈は一神教を放棄することで成り立っているような印象を受ける。ロゴスも神であるとすれば,二神論になるのではないだろうか。また,神でもあるロゴスが人間に知覚されるのであれば,神を超越者とする,この時代の神的概念にそぐわないのではないだろうか。本論では,「場所」概念を手掛かりとして,上述のテオフィロスのロゴス概念を分析し,彼の説く一神教概念や否定神学的文脈との整合性を吟味する。それによって,彼を含む二世紀の護教家教父たちが説いたロゴス概念が,後の時代の三位一体論などで展開されるキリスト論の教理史上で,どのようなかたちで位置付けられるかを考察してみたい。
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西南学院大学国際文化論集
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西南学院大学学術研究所
Seinan Gakuin University Academic Research Institute
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編集こそが映画であるような手法──3つのバレエ・ドキュメンタリーにおける「現実」と「創造性」──
栗原, 詩子
クリハラ, ウタコ
Kurihara, Utako
本論は,ドキュメンタリー映画における「現実性」と「創造性」の振幅に,「編集」がどのように関わっているかを考察しようとするものである。考察上の具体例として,3つのバレエ・ドキュメンタリーを並列的に観察する。バレエ・ドキュメンタリーは,素材自体に,動きと音が豊富に含まれて
いる上,撮影され記録される素材自体が大いに美的であるために,編集の位相が意識されにくく,ケーススタディが不足しているからである。エディソン傘下の発明家として知られるディクソン(William K.L. Dickson,1860‐1935)の『カルメンシータ』(Carmencita, 1894)以来,バレエという芸術領域を取材対象とするドキュメンタリーは少なくもない。数多のバレエ・ドキュメンタリーの中から,特定の踊り手や記念碑的公演に焦点をあてたものや,文化人類学的な視点にもとづくもの2)を除外して,編集上の恣意性── いわば作家性── が高いバレエ・ドキュメンタリーとしては,ドーンヘルム監督(Robert Dornhelm, 1947生)の『劇場通りの子供たち』(The Children of Theatre Street, 1977)やキェシロフスキ監督(Krzysztof Kies´lowski, 1941‐1996)の『種々
の年齢の七人の女』(Siedem kobiet w róznym wieku, 1978),ハート監督のテレビ映画『キーロフの舞台裏』(Backstage at the Kirov, 1983)などが思い浮かぶ。筆者は将来的に,これらを観察対象に含めた総合的な考察も展望しているが,本論では,ワイズマン監督(Frederick Wiseman, 1930生)の『アメリカン・バレエ・シアターの世界』(Ballet, 1995,以下『バレエ』と記載)ならびに『パリ・オペラ座のすべて』(La Danse : about the Ballet de l’Opéra National de
Paris, 2008,以下『ダンス』と記載)と,タヴェルニエ監督(Nils Tavernier, 1965生)の『エトワール』(Tout près des étoiles, 2001)を扱う。
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西南学院大学国際文化論集
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西南学院大学学術研究所
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Apparizione/appropriazione ──メディチ家支配初期のシエナにおけるフィレンツェ絵画──
松原, 知生
マツバラ, トモオ
Matsubara, Tomoo
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西南学院大学国際文化論集
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西南学院大学学術研究所
Seinan Gakuin University Academic Research Institute
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祈りは人を育てる
塩野, 和夫
シオノ, カズオ
Shiono, Kazuo
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西南学院大学国際文化論集
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