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西南野球部を復活させた大先輩“高橋清悟氏”
野中, 英二
ノナカ, エイジ
Nonaka, Eiji
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2011-05
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西南学院史紀要
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西南学院
Seinan Gakuin
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西南学院とアサ会 ― ボールデン院長の解任を巡って―
金丸, 英子
カナマル, エイコ
Kanamaru, Eiko
アサ会は、1930年代、独立伝道者であった田中遵聖(たなか・じゅんせい、本名種助[1886-1958]、以後田中)によって始められたキリスト教運動で、現在の日本バプテスト連盟の前身にあたる日本浸礼派教会西部組合(以後西部組合)に大きな衝撃を与えた。西部組合とは、当時九州に点在していた南部バプテストの流れを汲む諸教会が伝道協力のために組織した団体である。アサ会の存在は、いわゆる「アサ会事件」として教会関係者の間で憶えられているが、その影響は実に西南学院にまで及び、第三代院長G.W.ボールデン(以後ボールデン)の解任を惹き起こした。これについて『西南学院七十年史』は「院長となったボールデンを決定的な窮地に追いこんだのは、『アサ会』事件である」と記し、ボールデンの院長辞任をアサ会との関係で伝えている(『西南学院七十年史』上巻612頁)。本学神学部卒業生のバプテスト史研究者枝光泉は、この「アサ会事件」を「1930年代の初頭にあって、『一教会の独立を認め、他の誰にも干渉されない(バプテスト派の)原則』からは離れていた西部組合が、ミッション依存の体質から抜け出し、歩み出そうとしたときに起った象徴的出来事」と説明している(『宣教の先駆者たち』、240頁)。枝光が指摘するように、「アサ会事件」が優れて教会関係の出来事であるならば、なぜそれが西南学院院長の辞職と結び付けて語られるのだろうか。アサ会に関する研究は、ほとんどなされていないと言っても過言ではない。関連文献も皆無に等しい。強いて挙げれば、田中の息子である直木賞作家田中小実昌(1925-2000)が、『アメン父』で田中とアサ会についてノンフィクション風にその様子を伝えている(因みに、小実昌はこの本で1979年の谷崎潤一郎賞を受賞した)。研究文献に値するものとしては、辛うじて、『日本バプテスト連盟史1889‐1959』(日本バプテスト連盟)、『西南学院七十年史』、枝光の『宣教の先駆者たち』(ヨルダン社、2001年)のみであろう。特に枝光の研究は、現存する唯一の邦文学術研究として貴重である。本稿ではこれら文献から学びつつ、ボールデンの自叙伝(英文、未刊行)、複数の宣教師による活動報告、個人書簡、日記、当時の高等学部教員波多野培根が残した文書を用いて、ボールデンの院長解任から見えてくる西南学院とアサ会の関係を探り、そこから透けて見える学院史の一端を見てみたい。
2015-07-01T10:57:48Z
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2015-05
http://repository.seinan-gu.ac.jp/handle/123456789/1051
西南学院史紀要
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西南学院
Seinan Gakuin
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2021-11-10T05:45:24Z
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西南学院と戦争 ― アメリカ南部バプテスト・ミッション側からの視点を巡って―
古澤, 嘉生
フルサワ, カセイ
Furusawa, Kasei
戦争が西南学院に与えた影響について、筆者の戦争体験を踏まえての執筆を依頼された。すでに『西南学院史紀要』には、第3号に内海敬三氏による「西南学院とアジア・太平洋戦争」と題しての論考があり、さらに第4号には松見俊氏によって「戦時下のチャペルと西南学院の戦争との関わり」という題目の論説が掲載されている。内海氏は戦時下に西南学院中学部に学んでいたので、学院内での戦争体験者であり、論考の内容には大変に興味深い事項が述べられている。農村に宿泊しての勤労奉仕・作業、福岡の蓆田(板付)飛行場建設への勤労動員、軍需工場への学徒動員、福岡大空襲(1945(昭和20)年6月19日)など体験に基づいた諸事項が記されており、同時代に生きた筆者も同じ体験をしたのでいろいろと回顧しながら興味深く読んだ。一方、松見氏は主に1934(昭和9)年から発行されていた『西南新聞』の記事を探索し、それに基づいた戦時下の広範囲に亘る諸事項が丹念に記述されている。戦時中の『西南新聞』には今まで目を通す機会はなかったこともあって、当時の学院長、校長の講話など初期における部分と戦争の進行に伴い事態が緊迫して行く状況に応じて変化して行く様を興味深く読んだ。戦争遂行に向かって軍事政権の下、国家全体、全国民が動員され、すべてが戦争遂行に邁進を余儀なくさせられた中で、外部からの援助は途絶え、あまつさえ敵国アメリカ、その敵国の宗教、キリスト教宣教団によって創設された西南学院を存続させ、維持経営していかなければならない学院長をはじめ学校の指導者たちの苦悩・懊悩は想像するに難くない。戦時中から戦後にかけて学院長を務めたキリスト者、水町義夫は英文学者であり、特に詩歌を愛する自由人であった。戦後、大学が設立されて水町院長は引退しておられたが、英文学、なかでもシェイクスピアや英詩を講じておられた。筆者にとっては恩師の一人であり、またゼミの指導教授でもあった。筆者と西南学院との関わりは、1949(昭和24)年、新しく設置された新制大学として発足した西南学院大学に最初の新入生として入学してから始まる。したがって戦時下の西南学院とは関わりはなかったし、直接は何も知らない。ただ当時いわゆる「大東亜戦争」が勃発した1941(昭和16)年は小学校の6年生であったと思う。真珠湾攻撃を祝して、学校から鳥飼八幡宮に提灯行列をしたような記憶がある。翌1942(昭和17)年に西南学院に隣接している公立の中学校(旧制)に入学した。しかし、西南学院における戦時体制下の諸事情・状態に共通する様々な厳しい多くの体験を持ったと思う。与えられた標題に関して稿をまとめるに当たり、先の両氏の史実に基づいた論考は貴重な資料であり、そこに用いられた資料以外の新たな資料を見出すことは困難であるように思われる。西南学院は、周知の如くチャールズ・ケルシィ・ドージャー(以後、C.K.ドージャー)によって1916(大正5)年に創設された。創立者C.K.ドージャーは、アメリカ南部バプテスト派から派遣された宣教師であった。そこで南部バプテスト・ミッションから見た戦時下の日本における教育を含めた宣教の状況を記録し、かつ考察してきた視点があるのではないかと考えた。幸いに南部バプテスト宣教団から派遣されていた宣教師、後に西南学院大学神学部教授としても教鞭をとっていたキャルヴィン・パーカー(Calvin Parker)が、南部バプテスト派の日本伝道開始1889年から100年間の日本伝道の歴史を史実に基づいて研究し、一冊にまとめてアメリカの出版社(University Press of America)から出版した著書がある。書名はThe Southern Baptist Mission in Japan, 1889‐1989 である。この中から戦時体制下の戦争と西南学院に関する情報をある程度は得られるのではないかと考えた。以下、主に史実に基づき、ミッションから見たパーカーの論述を参考にし、筆者のコメントも挟みながら稿を進めることにしたい。(本稿は、学術的な論述ではないので、注は原則として付けないことにする。パーカー氏はアメリカ・ヴァージニア州リッチモンドの南部バプテスト外国伝道局に保管されている膨大な日本宣教に関する資料をはじめとして、種々の他の文書資料、さらに戦後も再来日して奉仕した宣教師からの口頭でのインタービユーに基づいて本書をまとめており、出所、出典等は原著に明確に記されている。ここでの再録は行わないことにする。著者パーカー氏とその詳細な、優れた研究業績に深甚の感謝を表明するものである。)
2015-07-01T11:04:19Z
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2011-05
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西南学院史紀要
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西南学院
Seinan Gakuin
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男女共学・中高一貫教育のあゆみ
和佐野, 健吾
ワサノ, ケンゴ
Wasano, Kengo
『西南学院史紀要』第6号は、西南学院小学校の開校にあわせて「西南学院と一貫教育」というテーマが取り上げられた。タイトルおよびサブタイトルともに自由に決めて良いとの指示のもと取り組んだが、書く内容が絞れず非常に難しいものになった。西南学院は小学校の開校で完全な総合学園となったが、大学を中心としてそれぞれの学校・園が付属という形のものではなく、またエスカレーター式に進学をしていくものでもない。「西南よ、キリストに忠実なれ」というスクールモットーによる一貫した教育を行っている。進学面からの一貫教育という視点で多少なりとも語ることができるのは、中学校・高等学校ではないかと考えた。1996(平成8)年、中学校・高等学校が一貫教育校として出発するまでには、多くの会議や議論を繰り返して来た。その経緯を残すことも必要であると考え、その過程を中心に執筆をした。
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2011-05
http://repository.seinan-gu.ac.jp/handle/123456789/1053
西南学院史紀要
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西南学院
Seinan Gakuin